倒錯思索ステイルメイト

愚問愚答観察。

五線奏者のオリジン

少し前に文字関連の基盤についての話をした*1ので今回は音符の基盤について書こうと思う。

 

僕が音楽に寄りかかっているのは音楽に傾倒していた母の影響とその母にグランドピアノを買ってあげていた祖父のおかげに違いないのだが、音楽について何か誇ることができるのは絶対音感と2ミリくらいの耳コピ能力だけでとてもみみっちいものである。しかし好きなことには違いなく、大した演奏技術ではないが子供の頃から触れてきたピアノ、高校の部活で吹いていたクラリネット、ライブのために練習したベース、そして大学入ってからでたまに弾くようになったクラシックギターなどと横に広いが薄っぺらい音の羽根が伸びている。さて、その根底に何があるのかと考えると【楽しむこと】だと結論を得る。演奏は表現方法であるから聴衆にとってのサービスという考え方はあろうが、音楽というものは聴き手の耳に入る前に演奏者が奏でていることに始まる。演者が楽しまずして音楽は成り立たないと思う。弾いていて楽しい、あるいは誰かと一緒に演奏して楽しい、そういった感情が音楽の下地にはあるはずだ。演奏者のオリジナル曲でない場合は、もっと根底に作曲者の意匠が眠っているのだがそれを呼び起こせるのはプロじゃないと厳しいものがある。そこまでの実力がない僕のような演者は曲の【仮装】を提供することしかできない。ハロウィンが【本物に忠実であること】よりも【楽しむこと】に本質を置くのと同様、下々のぼくらは楽しまずして何とする、ということに音楽を始めなければならない。仮装のレベル上げは二の次であるはずで、その順序を誤った労働的音楽は音楽の本質を見失っていると言わざるを得ない。それに演奏というのは誰かに聴かせるためだけにあるわけでもない。観客のいない独奏というのも良いもので、夜中眠れないときに視界0の状態でピアノを弾くと得も言われない浮遊感と悲壮感を楽しめるし宇治の大吉山や奈良の若草山の眺めの良いところでクラリネットを鳴らす解放感は何物にも代えがたい。

 

今回は聴く方でなく弾く方に主眼を置いたけどそのうち聴く方の話も書くかも。